浅津このみロングインタビュー

常に笑顔を絶やさず明るく、優れた身体能力に恵まれたアスリートという印象の浅津このみ選手。

陸上の7種競技出身で、2010年のカナダ・バンクーバー五輪では女子ボブスレー二人乗りでブレーカーを務めた。下町ボブスレー1号機完成時にはブレーカーとして未知数のソリに初めて乗ってくれた選手である。

2014/2015シーズンからブレーカーからパイロットへ転向した。2016/2017シーズンにはワールドカップに5大会出場。2017/2018シーズンを見据えてレベルアップを目指している。下町ボブスレー合同会社に所属して活動をしている浅津このみ選手。どんなルーツを持って、どんな人間なのかロングインタビューで迫る。

ンタビュー【浅津このみ】

・中学校時代

―出身は島根県ということですが、島根のどのあたりなんですか?

島根県の出雲市が地元です。縁結びで有名な出雲大社はウチから車で10分ぐらいで行けます。全国的には10月は神様が居ないという事で「神無月」といいますが、出雲大社がある島根県では「神在月」といいます。その理由は全国の神様が出雲大社に集まると言われているからです。その為、全国的には10月は「神無月」で島根県は「神在月」となっています。あと豆知識として(笑)、私は出雲市生まれで「神在月」の10月生まれ。全国の神様が集まっている時に生まれました(笑)

―島根県出雲市のおすすめスポットなどありますか。

出雲大社付近にある「島根ワイナリー」という場所がオススメです。出雲市はぶどう(デラウェア)が有名ですので、ワインにも力を入れています。

―出雲市がぶどうが有名というのは知りませんでした。

なぜオススメかと言いますと、それはただで色んな種類のワインが飲み放題なんです(笑)もちろんぶどうジュースもあります。夏とかですが、よく高校の頃は、帰り際に寄って「ぶどうジュース」をがぶ飲みして帰宅したものでした(笑)もちろん、出雲市のお土産なども売っているので、そういう面でもオススメです(笑)

―ぶどうで育った(笑)浅津さんがはじめてスポーツに関わったきっかけって何ですか?

浅津このみ:小学校3年の時にお父さんが「おもしろい遊びがあるぞ」と誘われたのが陸上競技を始めたきっかけです。父に聞いたら「姉妹がどんな遊びをするのかわからなくて困っていたところ、たまたま陸上教室のチラシが目に止まり、これがいいんじゃないか」と。その教室では鬼ごっこ、リレー、馬跳び等などをしたりして、幼い頃のそういう遊びに心を掴まれたのを鮮明に憶えてます。

―しばらくそのような遊びが続いたんですか。

浅津このみ:小学校5年生の時に恩師である青木先生に「あなたは短距離をしなさい」と言われて、本格的に陸上競技を教わり始めました。

―遊びを通じていいものを見出されたんですね。

浅津このみ:いま思えばそうなんですよね。その時は夢中で遊んでいただけでしたけど。その同じ頃に1つ上の姉ゆうこが走高跳びで全国大会に出場したんですよ!それをまぢかで見て「来年は私も出たい!」と強く思いました。明確な目標が出来た時期でありましたね。姉の影響はとても大きいです。その姉はバレーボール選手でVプレミアリーグでプレーしています。

―アスリート姉妹なんですね!それで小学校高学年の浅津少女はどうなったんですか?

浅津このみ:努力したんですけど、残念ながら個人種目では出場出来ませんでした。それでもリレーでの全国大会出場を果たして目標を達成したんです!とその矢先に小学校の陸上部が廃部してしまいました。その後第2希望のバスケ部に入りまして、県大会で3位になりました。ポジションはセンターでした。

―そういえばご両親もスポーツを何かやっていたんですか?

浅津このみ:父親は高校までバレーボールをしていました。母親は帰宅部だそうです(笑)ここまでアスリートとして育ててもらってきましたが、父親も母親も競技については『いっさい何も触れない』両親です(笑)おそらく、家の中では「普通」を意識してくれているんだと思います。家に帰っても競技の話をして、堅苦しい場所にならないよう、娘達が話をすれば「競技の話をする」というスタンスに見えますね。あと父は身長が190cmあり、島根のチェホンマンといわれてました(笑)スーパーでは、棚から頭が飛び抜けているので見つけるのは5秒もかかりません(笑)

―その後もバスケ続けたんですか?

浅津このみ:出雲北陵中学からバスケットボールでの推薦入学の話がきました。しかし父が「普通の中学生活を送って欲しい」ということで推薦の話を断りました。公立の中学校ではバスケ部に入部するつもりでしたけど、ここでも父から「シャカシャカ買ってやるから陸上部に入れ」と(笑)

―シャカシャカってなんですか?

シャカシャカって当時流行っていた憧れのウィンドブレーカーの事です(笑)今思えばダサいんですけど、当時銀色のシャカシャカがとてもカッコよかったんです。

―物に釣られて陸上部に入ったんですね(笑)お父様の導きですね。

浅津このみ:シャカシャカが憧れでしたから(笑)でも陸上部に入部すると、部自体は弱くて、部員もヤル気がなく、練習メニューがノートに書いてあるだけで、顧問の先生も見に来ない。そんな部でした。

―えぇ・・それは上を目指したい選手にとっては向上しづらい環境ですね。

浅津このみ:はい。そんな中で、中学1年の時は特に結果もなく無難に過ごしました。中学2年になり突然陸上競技に精通した顧問の先生と校長先生が赴任してきて事態が変化したんです。そこで専門家の指導を受け、私の眠っていたチカラを呼び覚ましてくれました。2年生ながら全国大会に出場したり。

―それはすごい変化ですね。人との出会いってすごいなぁ。

その時は横浜で全国大会が開催されて、島根から都会に出てきた少女としては当時は大興奮しましたよ(笑)これで火がついた顧問の先生は、休日も私の指導にあたってくれました。ただ今にして思えば本当に有り難いのですが、当時の私は嫌で嫌で仕方なかった。。。しょっちゅう喧嘩するし、練習すっぽかしたり、合宿行かない等・・・。今思うと本当に当時のコーチに迷惑をかけたと反省です(笑)反抗期+ワル(笑)だったのかもしれません。

―思春期のアスリートはそういう複雑なもの抱えてるのかも。

嫌だった理由は2つですね。1つは周りの友達は休みの日はみんな遊んいるのに私は付きっきりのトレーニングをさせられていたという事ですね。遊びたいのに、遊ばせてもらえない。そして月曜日の休み明けはみんなで、出かけた話をされても、その話について行けない、それがもどかしかったんだと思います(笑)2つ目は「私の望んだ勝利じゃない」って事が嫌な理由かもしれません。私の才能を指導者が見出してくれてトレーニングを組んでくれる。これは今思えば有難い事ですが『やらされている感』が大きく感じましたね。「先生たちが勝ちたいのであって、私は別に全国優勝したいわけじゃないもん」っていう、感じですかね。(笑)だから休日トレーニングも楽しくないし、勝ちたいわけじゃないのに「お前なら全国優勝出来るぞ」って言われたり(笑)何度も言いますが、
今思えば本当ありがたいことですがね(笑)

―そのような特訓の成果はでたんですか?

浅津このみ:中3では全国大会2位、ジュニアオリンピックで優勝しました。


<写真左>川崎奈都美選手(ブレーカー担当)

校・大学時代

―進学はどうなったんですか?

浅津このみ:第1希望は埼玉栄高校で、それ以外は考えていなかったんですが、顧問の先生から「浅津が高校3年の時に島根でインターハイがあるので、県外に行くな。」と言われ、複数誘いがあるものの1番の強豪校「大社高校」を断り、「出雲北陵高校」に進学しました。出雲北陵高校の退職された先生から「いい髪の色と、いいスカートの長さだなぁ(笑)」と言われました。というのも、この頃の私は、髪を染め、もうパンツ見えてるよ!って長さのスカートを履いてました(笑)

―(笑)

浅津このみ:この当時、出雲北陵高校には陸上部がなかったんですけど、私のために部を設立してくれました。

―浅津さんの為に作った陸上部はどんな感じだったんですか?

浅津このみ:当然部員は1人です(笑)たまたま中学の陸上部で一緒だった子が高校も同じだったので、寂しいからその子を誘いました。大人しい子でNoと言えずに入部してくれて、、、きっと私が怖かったんでしょう(笑)同じ時間を過ごすうちに、練習パートナーになり、マネージャーのような存在になってくれました。

―結果はどんな感じ?

浅津このみ:1年時には混成種目で茨城インターハイ11位。混成種目は100m障害、200m、800m、走り高跳、走り幅跳、砲丸投げ、やり投げの7種目あります。国体では100Mハードルで中3・高1の中で優勝。来年はベスト8に入れるだろうと調子乗っていました。高校2年の長崎インターハイでは、混成種目は2日間行われるんですが、初日に1つの種目で記録なし。つまり0点で。それ以降の種目は全て欠場したんです。ベスト8以上を狙っていたし、なれると思っていたので記録なしは心が折れました。情けないですね。翌日の島根の新聞に浅津は来年大丈夫か!?と書かれ、またまたショック受けて。

―プレッシャーとかもあったのかな。

浅津このみ:高校3年の時には地元島根でインターハイ開催だったので、活躍が期待されてました。これ以降、顧問の先生がランキングや混成種目のライバルの結果など、余計な情報が入らないようにしてくれてました。

―高校生だとまだ繊細な心だしね。

浅津このみ:高2の夏以降、本気で練習に取り組みました。高校3年になり、地区大会から勝ち進まないと中国大会に出れないので、最初から混成に出場するのは私1人。当時他の選手とのレベルが違い過ぎて、各地区のライバルが諦めて出場しなかったからなんです。そんな中でたった1人で各種目をこなしていく状況でしたね。どのような運営してくれるのか多少不安でした。期待されているし、たった1人で。

―まさに自分との闘いになりましたね。

100m障害は念のため3つのレーンに10台のハードルを全て並べてくれ、その真ん中を私が走る(笑)200mも800mも1人で真ん中のレーンを走る。貸切です(笑)でもその度に他校の生徒が一生懸命応援してくれるんですよ。1人なのでその声援は全て私の為。それが嬉しくて嬉しくて。800m終わった時点で初めて号泣しました。自然と会場全体が応援してくれて、たった1人でも自己ベストが出ていきましたので、その時は応援の力を実感しましたね。

―おそらく浅津さんの姿に他高の子達は心打たれたんでしょうね。浅津さんがボブスレーに取り組んでいる今の環境に通づるものがあるような感じがしました。

浅津このみ:そして高校3年のインターハイを地元島根での開催で迎えることになり。地元で入賞(8位以内)の可能性があるのは私と男子のリレーのみでした。初日は無事に終えたんですが、同じ日、期待の男子リレーはバトンミスでまさかの失格になりました。全ての期待が私にかかるのは当然なんですが、当時は押しつぶされるようなプレッシャーを感じました。

―2日目はどうなりましたか。

浅津このみ:結果3位になり、見事表彰台に乗りました。たった1人の入賞、たった1人の表彰台。地元ではインパクトがある話題となり、下町ボブスレーの細貝GMが10年後に島根で講演をやった時に、まだ私を憶えている人がいたと聞きました。

―その後大学に進学するんですか。

浅津このみ:いくつかの大学から推薦もらったんですけど、その時はもう陸上をやる気がありませんでした。高2で挫折を味わい、高3の男子リレーが失格してからのプレッシャーなどがあり燃え尽きた感がありました。その当時、お世話になっていた盲目の鍼師の先生の影響を受けて、鍼師や保育士になってみたいなとおもっていた所、その鍼師の先生に「お前は目が見えるんだから、目が見えない人のチャンスを奪うな。大学入ってからでも鍼師にはなれる。大学では児童教育を学んだらどうか?」と言われて、中央大学の文学部教育学科心理学コース(児童)に決めました。

―それでも大学で陸上部には入ったの?

浅津このみ:入ったんですけど、ハッキリ言って大学で競技をやる気はでてきませんでしたね。それでも同期の友達に恵まれ、寮生活は楽しかったです。というか大学1年のときはプラプラ過ごしてました(笑)2年になり想定外の出来事が起きて。当時指導者もいなくて自分達で練習内容を決めていたんですけど、超ヤル気満々の監督が中央大学にやってきまして(笑)それまでとは生活は一変し、午後はビッシリ練習の日々になりました。私は特に監督から厳しく指導されました。

―厳しいのは期待の裏返しですもんね。

浅津このみ:100mを30本と言われれば、他の選手は出来ないのに意地でも全部やってました。それまで全くヤル気なかった選手だったんですけど、その監督に指導してもらってからは半年程で全日本インカレで10位前後にしてもらいました。どんなにひどい事を言われても、怒られても、気持ちがあるなら全く嫌じゃなかったかなぁ。3年になる頃にはインカレで女子総合優勝を目指そうと同期の間で盛り上がってきたりして朝練始めたり。

―結果はどうなりましたか。

浅津このみ:大学3年の時は関東インカレ1位。全日本インカレ1位でした。日本選手権では2日目記録なしの時があり、帰りの新幹線、監督の隣で5時間説教されたのを今でも憶えてます。大学4年は関東インカレ1位。全日本インカレ1位。アジア大会に出たかったので、希望留年しました。大学5年生でした。学費0円だったが、生活費は自分で出すのが希望留年の条件。ティップネスでバイトをして生活費を稼ぐ。関東インカレは4回しか出れないんですけど、全日本インカレ2位、日本選手権では4位。アジア大会出場はなりませんでした。その後中央大学の陸上部のコーチが始まりました。


<写真右>川崎奈都美選手(ブレーカー担当)

ブスレーとの出会い

―陸上の世界にどっぷりですね。

浅津このみ:コーチになって、奈良インターハイに選手を勧誘に行くんですけど、そこでまさかの自分がボブスレーに勧誘されました。ボブスレーのコーチをやっていた石井さんに誘われてたんですけど、そこではお断りしました。その後、たまたま中央大学の夏合宿とボブスレーの夏合宿の場所が長野だったので断れずに行く事になりまして。ここでいまでもボブスレー競技を共にやっている川崎奈都美さんと同じ部屋で仲良くなりました。私が倖田來未のタオルをもってて倖田來未好きなんですか?とか聞かれて。

―当時はボブスレーって最初に聞いてどんな事を感じてイメージしたか憶えてますか?クールランニングの映画とか見ていましたか。

浅津このみ:「ボブスレーって何?」から始まりました。そんな知らない競技にわざわざ陸上から転向する意味がないと(笑)クールランニングの映画も観たこともなければ、そんな映画があるなんて知りませんでしたよ(笑)オリンピックの選考で遠征に回り出してから、友人からDVDを貰い、それで初めてクールランニングを知りました。

―プッシュボブスレーやってどうでした?

浅津このみ:プッシュするとなかなか良いタイムで遠征に誘われたんですけど、自費という事で悩んでて姉に相談して。姉には「チャンスなんだからやってみなよ!費用は全部出してあげるから。」と背中を押され、遠征に行きました。選考に勝ち残り、バンクーバーオリンピック出場しました。パイロットは桧野真奈美さん。結果は16位。

――オリンピックに出場したというのは浅津さんにどのような経験が残りましたか?また思い出に残っていることはありますか。

浅津このみ:オリンピックに出場して《緊張》や《こうしておけば良かった》という後悔は全くありませんでした。残った経験も「マシーンを使った競技なので、もしかしたら日本人でも勝てる競技かもしれない」と改めて思えた試合くらいですかね。今のようにボブスレー一本で、無我夢中にオリンピックに出るためにトレーニングをしていた訳じゃないので、『あっという間』にトントン拍子に出れたので、やっぱり想いは薄かったですよね。今、オリンピックに出場できるのが100%嬉しい気持ちだとしたら、当時は10%くらい(笑)オリンピックで印象に残っている光景は、セキュリティの厳しさですね。これは選手村でもコースでも。空の上に常に気球が居て、その中にずっと見張ってる人がいたんです。それを観て、他国が沢山集まるということは、それほど危険な事でもあるんだなぁーって。日本じゃ考えられなかったので。

―ボブスレーは続けようと思いましたか。

浅津このみ:この時、大学側から職員にならないか?と打診されていて。筆記試験にパスし、無事に職員の内定が出ました。当時パイロットにならないかと誘われていたのですが、その時はパイロットのイメージがなく、もう少しブレーカーをする道を選びました。その後パイロットの吉村さんとチームを組みました。この時コーチを引き受けてくれたのが元五輪選手の脇田寿雄さんです。メールして数回直談判しに行きました。「吉村さんがパイロットとして初めての日本選手権(2011年)で優勝します。その技術を見に来てください」と頼みました。実際に2011年の日本選手権で優勝して脇田さんがコーチしてくれる事になりました。

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町ボブスレーとの出会い

―そこで脇田さんから下町ボブスレーに乗らないかと誘われるんですか?

浅津このみ:吉村さんと同時に引退を考えていたんですけど、そんな時に思いもしない話がきて。脇田さんが「日本でソリを作ったので、テストパイロットをしてくれないか?」とこの話は、私達ペアに最初にきた訳ではなかったんです。ソリをつくった実績のない人達が作ったなんて怖いといわれていて乗る人がいなかった。脇田さんに恩があった私達ペアは下町ボブスレーに乗る事を即決しました。3日間のテスト、初日は脇田さんと私がのりました。2日目と3日目は吉村さんと私で。ここで昨年の日本選手権の優勝と同等のタイムを叩き出しました。ちなみに初めて下町ボブスレーのリーダー細貝さんと出会ったのは、最終日の3日目でした。

―下町ボブスレーの人達の印象は?

浅津このみ:細貝さんと始めてこの時あいましたが、この人は誰だ?明るくて良くしゃべる人だなと(笑)試走最終日に日本選手権に出場をする事を決めました。ただ大会の前日になってソリのレギュレーションにあってるかチェックするといわれ、当時大田区産業振興協会の小杉さんが当日の朝に来てくれたんです。ソリを全てチェックし、問題はないと言ってくれた事で、日本選手権に出場できた。結果は優勝できてうれしかったですね。

来について

―現在どんな日々をおくっているんですか?

浅津このみ:現在はトレーニング漬けの日々を送っています。午前・午後と2回に分けて週5.6回トレーニングをしています。10月からシーズンが始まるので、それまでは体力を「積む」期間です。

―トレーニング以外にもコースの座学をしたんですよね?レーサーに講習を受けてみてどう感じましたか?

浅津このみ:競技は全く異なるのに、パイロットの操作で似ている点や理論が沢山あり驚きました。今回受けた講習や実技が今シーズンどのようにパイロット操作に反映して活かしていけるのか、いまからとても楽しみです。

―今の目標を教えてください。

浅津このみ:ピョンチャン五輪の出場権を獲得することです。

浅津このみ:プロフィール

12421823_946360865417433_1812384141_n1986年10月23日生。島根県出雲市出身。中央大学卒業。七種競技出身の選手。2009年からボブスレーを始める。ブレーカーとして2010年バンクーバー五輪の日本代表に選出。2014年パイロットに転向そのシーズンには全日本選手権で準優勝。下町ボブスレー合同会社に所属して活動中。(写真左:中央)

浅津このみ関連リンク

浅津このみオフィシャルブログ20SUNFLOWER14

2017/2018シーズンレース結果

※レース名をクリックすると詳細が展開します。

2017

BMW IBSF World Cup Winterberg (GEM)
2人乗り女子 ドイツ・ウインターベルグ
パイロット:浅津このみ ブレーカー:川崎奈都美
11月18日 World Cup 23位
BMW IBSF World Cup Park City (USA)
2人乗り女子 アメリカ・パークシティ
パイロット:浅津このみ ブレーカー:川崎奈都美
11月18日 World Cup 20位
BMW IBSF World Cup Lake Placid (USA)
2人乗り女子 アメリカ・レイクプラシッド
パイロット:浅津このみ ブレーカー:川崎奈都美
11月10日 World Cup 18位